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/漢字史/癌

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* 経緯 [#ne1ddb4b]
;,「癌」が「岩」に通じ中国官話でyan²と読むべきものの、
;,同じく病気の名前を「炎」yan²と同音がために、「癌」をai²と改めた話がある。
;,真偽であることを確認する際、否定された和製漢字説にも出くわし、大変面白い結果が得られた。
;,その調査結果を以下に記す。
「癌」が「岩」に通じ中国官話でyánと読むべきものの、
同じく病気の名前を「炎」yánと同音がために、「癌」をáiと改めた話がある。
真偽であることを確認する際、否定された和製漢字説にも出くわし、大変面白い結果が得られた。
その調査結果を以下に記す。

#contents
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* 事実:yán から ái に変更されている [#a1545785]

* 事実:yan² から ai² に変更されている [#a1545785]

;,直接資料は個人図書館 www.360doc.com のユーザ「三姑書斎」の 2015/09/08 の記事
直接資料は個人図書館 www.360doc.com のユーザ「三姑書斎」の 2015/09/08 の記事
;,「他改変了“癌”字的読音──《現代漢語詞典》背後的故事」((訳:彼は「癌」字の読みを変えた──『現代漢語辞典』の背後にある物語))
;,執筆 庄建、編集 金衛鋒、審査 熊亦涵
;,http://www.360doc.com/content/15/0908/22/16520842_497788493.shtml

;,本記事は『現代漢語詞典』という中国で有名な定番辞書の編集に纏わる裏事情の紹介である。
;,前半は一代目編集責任者である呂叔湘を、後半は二代目編集責任者である丁声樹を紹介している。
;,中ほど、青い太字で強調された2段落で、丁声樹の業績として癌の読み変更を紹介している。
本記事は『現代漢語詞典』という中国で有名な定番辞書の編集に纏わる裏事情の紹介である。
前半は一代目編集責任者である呂叔湘を、後半は二代目編集責任者である丁声樹を紹介している。
中ほど、青い太字で強調された2段落で、丁声樹の業績として癌の読み変更を紹介している。

;,原文引用:
原文引用:
> 将“癌(yán)”字音改ái音,是丁声树的贡献。
> 他注意到医生口中的“胃ái(胃癌)”和“胃yán(胃炎)”是有区别的,而词典中两者却是同音词。
> “癌”从“喦(yán)”得声,历来如此。
> 为此,丁声树特意走访了多家医院,才知道大夫们早已约定俗成地将“胃癌”读作“胃ái”。
>  
> 一切从语言实际出发,丁声树果断地将“癌(yán)”音改标为ái,
> 从而在词典中将“胃癌(ái)”、“胃炎”严格区别开来。
> 这一变更,肯定了医生们的创造,极便于一般人口头表达,很快为社会广泛接受。

;,超意訳:
超意訳:
> 「癌(yán)」の読みを「ái」に変えたのは、丁声樹の業績である。
> 彼は、医者たちが「胃癌」と「胃炎」を区別しているのに辞典で両者が同音詞であることに気づいた。
> 「癌」は古来より「喦(yán)」から読みを取っていた。
> 丁声樹は、辞書を編著するために病院を歩き回って初めて、現場の医者が昔から習慣的に「胃癌」を「胃ái」と読んでいることを知った。
> 丁声樹は、辞書を編著するために病院を歩き回って初めて、現場の医者が昔から習慣的に「胃癌」を「胃ái」と読んでいることを知る。
>  
> 一切言語の実際から出発し、丁声樹は「癌(yán)」の読みを「ái」に変える判断を下し、
> 丁声樹は言語の実態に基づき、「癌(yán)」の読みを「ái」に変え、
> 「胃癌(ái)」と「胃癌(yán)」を厳密に区別させた。
> この変更では、医者たちの想像を肯定し、一般人の会話表現も便利にし、早くても社会に受け入れられた。

;,要は、辞書的に同じく病気を表す「癌」も「炎」同じ読み「イェン」になっているが((厳密にも、全ての子音・母音から声調まで、中国語において弁別可能な要素が全て一致している。))、
;,現場の医者では当然「胃癌」も「胃炎」も「イ・イェン」では紛らわしくて仕事にならない。
;,そんな医者たちは勝手に読み替えして、同音異義語を回避していた。
要は、辞書的に同じく病気を表す「癌」も「炎」同じ読み「イェン」になっているが((厳密にも、全ての子音・母音から声調まで、中国語において弁別可能な要素が全て一致している。))、
現場の医者では当然「胃癌」も「胃炎」も「イ・イェン」では紛らわしくて仕事にならない。
そんな医者たちは勝手に読み替えして、同音異義語を回避していた。

;,日本語で言うと、「市立」も「私立」も辞書的には「シリツ」と読むが、
;,それでは話にならないので教育現場では「イチリツ」と「ワタクシリツ」と呼び分けているのと同じ。
;,それを辞書で「市立(イチリツ)」、「私立(ワタクシリツ)」を正に変えたのが丁声樹の仕事である。
日本語で言うと、「市立」も「私立」も辞書的には「シリツ」と読むが、
それでは話にならないので教育現場では「イチリツ」と「ワタクシリツ」と呼び分けているのと同じ。
「シリツ」だった辞書を「市立(イチリツ)」、「私立(ワタクシリツ)」に変えたのが丁声樹の仕事である。

;,この記事はそれなりのプロセスを経て出されていて、
;,かつ、国家プロジェクトであるがゆえに記録も多く、
;,もしガセネタであれば反論の一つや二つは容易に見つかるはず。
;,そのため、本記事の内容は一定の信憑性があるものとして受け止める。
この記事は編集と構成を経て出されていて、
かつ、記事の対象が国家プロジェクトで記録も多く、
偽りがあれば反論の一つや二つは容易に見つかるはず。
そのため、本記事の内容は一定の信憑性があるものと私は評価する。

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* 虚構:和製漢字説 [#y84d7c22]
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** 和製漢字と思える理由 [#z7dc4338]
「癌」という字の歴史を調べると、定番字書である
『説文解字』((漢代に出版された最古の部首別漢字字典。&br;wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AC%E6%96%87%E8%A7%A3%E5%AD%97 が詳しい。))にも
『康熙字典』((説文解字以降の歴代辞書を集結した清代の大字典。&br;wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E7%86%99%E5%AD%97%E5%85%B8 が詳しい。))にも見当たらない事実に遭う。
台湾教育部の『異体字字典』((異体字まで豊富に収録しているオンライン字典。&br;https://dict.variants.moe.edu.tw/variants/rbt/home.do ))で調べても出典が乏しく、
1953年に完成した台湾語発音の字典である『彙音宝鑑』しかない((異体字字典【癌】https://dict.variants.moe.edu.tw/variants/rbt/word_attribute.rbt?quote_code=QTAyNzA3))。

;,「癌」という字の歴史を調べると、定番字書である
;,『説文解字』((最古の部首別漢字字典。&br;wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AC%E6%96%87%E8%A7%A3%E5%AD%97 が詳しい。))にも
;,『康熙字典』((説文解字以降の歴代辞書を集結した清の大字典。&br;wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E7%86%99%E5%AD%97%E5%85%B8 が詳しい。))にも見当たらない事実に遭う。
一応もう一つの出典として『正字通』も挙げられてはいるが、残念ながら「𤸔(pin³)」という別字だった。
;,16世紀に完成した『本草綱目』には「癌」と「𤸔」の両方が現れていて、別義の別字と分かる
((根拠は後述する漢字文化資料館の記事の一番最後が詳しい。&br;https://kanjibunka.com/yomimono/igaku_kanji/yomimono-7389/))。

;,台湾教育部の『異体字字典』((異体字まで豊富に収録しているオンライン字典。&br;https://dict.variants.moe.edu.tw/variants/rbt/home.do ))で調べても出典が乏しく、
;,1953年に完成した台湾語発音の字典である『彙音宝鑑』しかない((異体字字典【癌】https://dict.variants.moe.edu.tw/variants/rbt/word_attribute.rbt?quote_code=QTAyNzA3))。
;,一応もう一つの出典に『正字通』も挙げられてはいるが、字形も発音も「𤸔(pin³)」という別字である。
;,16世紀に完成した『本草綱目』には「癌」と「𤸔」の両方に現れていて、別義の別字とのこと
((後述する漢字文化資料館の記事の一番下を参照。&br;https://kanjibunka.com/yomimono/igaku_kanji/yomimono-7389/))。
このパターンは国字、すなわち日本で作られる和製漢字の場合が多い。
日本で作られた漢字だから、中国の大字典でも収録されない。
「癌 国字」で検索すると見事にヒットはする。
ただし、同時に否定もされてしまう。

;,このパターンは国字、すなわち日本で作られる和製漢字の場合が多い。
;,日本で作られた漢字だから、中国の大字典でも収録されない。
;,「癌 国字」で検索すると、ヒットはするものの、直ちに否定される。
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** 否定される根拠 [#rb0a225d]

;,福井県立図書館のレファレンス記録には、丁度「癌」についての調査結果が出ている。
福井県立図書館のレファレンス記録には、丁度「癌」についての調査結果が出ている。
- レファレンス協同データベース、事例「福井県図-20100819」
;,https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000070636
;,かなり詳しく調べられていて、その詳細を後に言及するが、国字と評された事実が調べ上げられている。
> 新潮日本語漢字辞典には、「国字」とある。

;,福井県図の調べでも詳細に否定しているが、同じ趣旨の記事を数本挙げておく。
福井県図の調べでも詳細に否定しているが、同じ趣旨の記事を数本挙げておく。
- 和・漢・洋・才! 語源のブログ、2010/01/06 記事
;,「国立がんセンターに行ったので、癌(ガン)の語源!」
;,http://naruhodogogen.jugem.jp/?eid=129
;,主に『医学用語の起り』を引用し、国字説から否定の顛末を記している。

- 大修館書店 漢字文化資料館 連載記事「医学をめぐる漢字の不思議」
;,2019/10/10 記事「『癌』の不思議」、西嶋佑太郎 著
;,https://kanjibunka.com/yomimono/igaku_kanji/yomimono-7389/
;,主に「大字典」などを引用し国字説を挙げつつ、
;,医史学者である富士川遊が1909年の指摘を引用して否定している。

これらの文献で挙げている否定の根拠は同じである。
- 1170年(宋代、平安時代)の「衛済宝書」に「癌」の記載がある。
- 1264年(宋代、鎌倉時代)の「仁斎直指方」に「癌」の記載がある。

また、福井県図によれば、和書では
-1666年(江戸時代)『合類医学入門』に「癌」の記載がある。
-1793年(江戸時代)『病名彙解』に「癌」の記載がある。
&br;(※確認したら「岩」が使われていた)

殊更、和書『合類医学入門』は1575(明代、安土桃山時代)の漢籍『医学入門』に基づいて再編した本である。
『医学入門』の立ち位置に関しては以下が詳しい。
-『研医会通信』11号 2007/05/07 の古医書紹介記事
;,『医学入門(1)』1979年12月 中泉、中泉、齋藤
;,http://ken-i-kai.org/homepage/index0705.htm

以上の証拠により、日本が西洋医学を学んで造字する前から「癌」の字が存在していたと結論づけられる。

%bodynote
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** 根拠の検証 [#i2477628]
「記載があると」あれば、実物を見れば確証を得られる。
しかし、千年も前の書籍を容易に見れるものではない。
語源ブログによれば、在野の研究者ですら現物を確かめるのが難しい。

* 理論:疑母の消滅と音韻変化の流れ [#w335224d]
幸い、今はデジタルライブラリが充実し、外野でもその恩恵を受けられる。
先人に感謝しながら、以下にアクセスできた書籍を有難く引用する。

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*** 新刊新刊仁齋直指方論目録 [#s4a7b57c]
#column(80%,20%)
- 公開元:国立国会図書館デジタルコレクション((国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/))
- 出版年:1550年(明代嘉靖29、室町時代天文19年)
- URL: https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2533409/11

結論、「癌」だ。
#column
|l:|c
|*図1: 新刊新刊仁齋直指方論目録にある「癌」の用例|h
|&ref(./GanRefNinsai.jpg,50%);|
#column

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*** 合類李挺先生医学入門 外集巻之十六 	八尾玄長 編 [#o36dc9c4]
#column(90%,10%)
- 公開元:国立公文書館デジタルアーカイブ((国立公文書館デジタルアーカイブ https://www.digital.archives.go.jp/))
- 出版年:1666年(江戸寛文6年、丙午、清代康熙61)
- URL: https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?BID=F1000000000000034801&ID=&LANG=default&GID=&NO=16&TYPE=JPEG&DL_TYPE=pdf&CN=1
- ページ11右(書籍頁九)

説明の中身も含めて如何にも「癌」だ。

一応書き下し((途中、一部の返り点がかなり怪しいが……))((この短い文書の中に、異体字まで混ざってて中々手強い。)):
>【''&ruby(セツ){癤};&ruby(ガン){癌};&ruby(ヒョウ){瘭};&ruby(コ){痼};&ruby(ま){也};た&ruby(おなじ){同};方。''】
> &ruby(カツ){闊};一寸より二寸に&ruby(いたる){至};を&ruby(セツ){癤};と為す。
> 二寸より五寸に&ruby(いたる){至};を&ruby(ヨウ){癰};と為す。
> 五寸より一尺に&ruby(いたる){至};を&ruby(ソ){疽};と為す。
> 一尺より二尺に&ruby(いたる){至};を竟体&ruby(ソ){疽};と為す。
> ''&ruby(いまだ){未};&ruby(つい){潰};へず色紫黒堅硬、&ruby(すで){已};に&ruby(つい){潰};へて深陥岩の&ruby(ごとき){如};を&ruby(がん){癌};と為す。''
> &ruby(シ){四};&ruby(ハン){畔};&ruby(うむ){生};を牛唇の如く黒硬&ruby(ヒョウ){瘭};と為す。
> 頭面無く色淡紅を&ruby(コ){痼};と為す。
> &ruby(これ){是};知ぬ腫起を&ruby(ヨウ){癰};と為す。
> 沈潰を&ruby(ソ){疽};と為す。
> 外に発出する者を外発、腸胃に陰伏する者を内&ruby(ソ){疽};と為す。
> ''&ruby(セツ){癤};、&ruby(ヨウ){癰};&ruby(ソ){疽};に比すは更に軽し、&ruby(ガン){癌};&ruby(ヒョウ){瘭};&ruby(コ){痼};は多くは治し難し。''
> 〇''癌は多く&ruby(ニュウキョウ){乳脇};&ruby(トンコ){豚跨};に生む。''
> 全く&ruby(よろしく){宜};大に気血脾胃を補うべし、及び鑞礬丸(方は外科通用を見よ)
> 膜を護り肌を生め、&ruby(そ){其};の&ruby(まんがいち){万一};を&ruby(こひねが){冀};ふ。
> 〇&ruby(ヒョウ){瘭};&ruby(コ){痼};は&ruby(うしろ){後};の週身の部に見たり。

#column
|l:|c
|*図2: 合類李挺先生医学入門にある「癌」の用例|h
|&ref(./GanRefNyuumon.jpg,50%);|
#column

また、『医学入門』の原本写真は見つからなかったが、
それをテキスト化したライブラリが中国語で公開されている。
;,中医宝典 > 中医综合 > 《医学入门》
;,http://zhongyibaodian.com/yixuerumen/
;,癌は「外集卷五 外科」の「癰疽総論」となる。
;,http://zhongyibaodian.com/yixuerumen/346-18-1.html
;,一番最後の「疖癌瘭痼也同方。」からの段落が上記段落に対応している。

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* 理論:音韻変化 [#mbc15191]

冒頭に引用した記事から、「癌」の発音がyán から ái に変更されている事実が分かった。
しかし人為的な変更ではあるが、医療現場の使い分けに基づいていた。
その医療現場で発生した音韻変化を調べると、一般的な音韻変化と方言音の2つの理由に辿り着く。

** 疑母 ŋ の脱落と m 韻尾の合流 [#pfef0371]

「癌」に通じる「岩」の古字「嵒」の中古音は「ŋam」に推定され((議論を単純にするため、幾つかの推定結果を基に単純化している。例えば、軟口蓋化$$\super G$$や声調は無視している。))、「yan」と「ai」の違いは頭子音と終子音になる。
頭子音の「ŋr→y,φ」と終子音の「m→n」は一般的な音韻規則で説明できる。

中国語の軟口蓋鼻音こと牙音次濁の「ŋ」が不安定で、様々な方言において脱落ないし弱化している。
大体の傾向として、普通話の基準となっている北京語ではほぼ完全に脱落している。
北方方言の武漢や南方方言では開口呼(-a-母音)を中心に部分的に保留されている。
参考:
-「漢語方言影疑母字声母的分合類型」語言研究 2007/12 Vol.27 No.4 趙学玲
;,(中国語方言の影母字と疑母字の子音の分離と合流の分類)
;,http://hakka.ncu.edu.tw/hakkalanguage/scripts/ch/ldownload/thesis/%E6%BC%A2%E8%AA%9E%E6%96%B9%E8%A8%80%E5%BD%B1%E7%96%91%E6%AF%8D%E5%AD%97%E8%81%B2%E6%AF%8D%E7%9A%84%E5%88%86%E5%90%88%E9%A1%9E%E5%9E%8B.pdf

他方、韻尾の終子音である「-m」が「-n」に合流したのは、16世紀頃に起きた北方方言全体に及ぶ音韻変化である。
参考:
- 愛知県立大学外国語学部 古代文字資料館「図説漢語音韻史」
;,http://www.for.aichi-pu.ac.jp/museum/pdf/zusetsu.pdf

これらの結果により、「岩」は ŋ の弱化と m の合流で、ŋam から yan に変わったと説明できる。

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** 「崖」の方言音 [#f8f2cf0d]

対して、韻尾の「n」→「i」の変化、延いては韻母の「an」→「ai」の変化は珍しい。

英語版wikipediaの「癌」の項目には気になる説明がされている。
- https://en.wiktionary.org/wiki/%E7%99%8C
> In Mandarin, this character used to be pronounced identically as 岩 (yán).
> Its pronunciation was changed to ái in December 1962
> to avoid the homophony between 癌 (ái, “cancer”) and 炎 (yán, “inflammation”) 
> (compare 肺炎 (fèiyán, “pneumonia”) and 肺癌 (fèi'ái, “lung cancer”)).
> The new pronunciation ái stems from dialectal pronunciations of 岩 (“rock; cliff”) /ŋai/,
> influenced by 崖 (yá, yái, “cliff”). 
<超意訳:
> 普通話では、この文字が「岩 (y&#225;n)」と同じ発音されていた。
> 1962年12月に、&#225;i に変更された。
> 「癌 (&#225;i, "cancer") 」と「炎 (y&#225;n, "inflammation") 」の混同を避けるために。
> (「肺炎 (f&#232;iy&#225;n, "pneumonia")」と「肺癌 (f&#232;i'&#225;i, "lung cancer")」を比較せよ)
> 新しい発音 &#225;i は、岩(rock;cliff[崖])/&#331;ai/の方言の発音に由来する。
> 「崖 (y&#225;, y&#225;i, “cliff”)」に影響を受ける。

「崖」に関して調べると、百度知道に尤もらしい答えが見つかる。
- https://zhidao.baidu.com/question/2054685461515112987 ((「百度知道」は某知恵袋のようなサービスのため、信憑性に警戒が必要である。この読みは辞書を引けば確認が取れる。))
> 問:崖的三&#31181;&#35835;音yai,ya和ai意思完全一&#26679;&#21527;?
> 答:一&#26679;的,只是三&#31181;&#26102;期不同的&#35835;法。
>   崖 y&#225; y&#225;i (大&#38470;旧&#35835;音,台湾正&#35835;音,大&#38470;旧又&#35835;&#225;i) 意思都是山崖|&#24748;崖。
<超意訳:
> 問:「崖」の3種類の読みyai、yaとaiの意味が全く同じか?
> 答:同じ、単に3つの異なる時期の異なる読み方なだけ。
>   崖 大陸現読み ya((直訳では「大陸旧読み」になるが、後ろとダブることと、yaは現行辞書に載る読みのため、恐らく誤字。))、台湾正読み yai、大陸旧読み ai。意味は全て「断崖」。

「崖」の昔の発音を調べると、五佳切 &#331;ai と分かる。
- 台湾 国家教育研究院 教育部異体字字典【崖】
;,https://dict.variants.moe.edu.tw/variants/rbt/word_attribute.rbt?quote_code=QTAxMTI2

この変化に関して、まず &#331;ai → ai, yai は &#331; が脱落・弱化した結果と説明できる。
次に yaの発生となるが、yai の韻尾 i の脱落と考えられる。

というのも、通常韻尾 i は脱落しないが、殊更 ?-i-?-i は普通話に許容されてない音節となる((具体的に、yei, yai, diei, diai, jiei, jiai などの音節が無い。))
((他に、?-u-?-u の音節も無い。例えば、weu, wau, duou, duau, zuou, zuau などの音節が無い。))。
&#331;ai の弱化で yai が発生したのが台湾正式読みだが、居座りが悪いため脱落したのが ai と考えられる。そして、yai のように &#331; は弱化に留まった上で居座り良くするために韻尾 i が脱落して生じたのが ya と考えられる。
|l:|c
|*図3: 「癌」に関連した漢字の変遷|h
|&ref(./GanGaiOnin.jpg,50%);|
|説文、玉篇、龍龕の発音表記は反切からの推定音。単純化のため、声調がないなど不正確な点を含む。|+
|北:普通話(北京)、台:国語(台湾)、客:客家語。|

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** 「岩」の方言音 [#sa36a41a]

では、「崖」のこの影響を受け、「岩」も同じように考えられるか。
これも百度知道に答えが出ていた。
- https://zhidao.baidu.com/question/95376545.html
> 問:“岩”字就一个“yan"”的&#35835;音&#21527;?四川 重&#24198; 安徽都&#35835;“挨”字音的。&#20026;什&#20040;?
> (後略)
<超意訳
> 問:「岩」のの読みは yan の1つだけ?四川・重慶・安徽が皆「挨(ai)」と同じ音で読んでいるけど、なぜ?

その後の問いは趣旨が変わって「なぜ ai の読みも辞書に収録しないのか」となり、回答も ai の生じる理由に答えずに、「普通話の辞書だから普通話の発音しか収録しないのが当たり前」という頓智になっていた。

しかし、少なくとも四川・重慶・安徽など中国の中部では「岩」を ai と読む地方の存在するのが分かる。「岩」を ai と読むか読まないかの話自体は他にも沢山見つかることから、事実と思って良いだろう。そのた結果、「肺炎」と「肺癌」の区別に苦労した医者に「岩」を ai と読む地方の出身者が居れば、方言音の ai で区別する工夫をし、現場で普及して行くのが容易に想像つく。

ところが、これが「崖(yai,ya,ai)」の影響かは確認できない。
「崖」が ai になるのは &#331; の弱化で生じた yai が嫌われるためのは前節での説明した通り。
それで「崖の影響を受ける」と言われると、まず思いつくのは &#331; の弱化ではなく完全脱落
&#331;am → am → an になるが、これでは → ai を説明できない。

また、「岩」の &#331; が弱化して生じた yan は良くある音節である。
「岸」のように &#331;an → an と脱落する例もあるが、顔言眼雁など yan に弱化して安定する例が多い。
一応、解答者が挙げたリストを見ると、anとaiが混同する地域が存在するだろうが、
場所も含め、2020/03/30の時点では確度の高い情報を見つかってない。

- https://zhidao.baidu.com/question/95376545.html
> 如果全国各地的&#35835;音都收,那就没法&#32534;字典了,&#38590;道&#35828;“岩”&#35835;yan,an,ang,ai,ngai,ngan,ngam,am?
< 超意訳
> 全国の方言読みを全部収録したら、字典とか作れないわ。「『岩』
が yan,an,ang,ai,ngai,ngan,ngam,am と読む」とでも書けっての?

上で考えられた音節が大体出揃っている。
こんな辞書があったら、正直欲しい!

%bodynote
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* 結論 [#n60fc29c]

以上の調査により、現時点では以下を結論とする:
- 癌の読みを y&#225;n から &#225;i に人為的に変えられたのは事実であった。
- 辞書での変更より先に、&#225;i と読む職場と地方が存在していた。
- 癌の字と読みは古く、遅くとも宋の時代からあり、和製漢字説は間違い。

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* 参考 [#g01a646c]
** ツール [#j9d41e78]
- 中国語方言のページ http://gattin.world.coocan.jp/
-- 中国語方言字音データベース http://gattin.world.coocan.jp/fangyin.htm
- 中華民國教育部 異体字字典 https://dict.variants.moe.edu.tw/variants/rbt/home.do
- 韻典網 https://ytenx.org/
-- 聲母及反切上字 https://ytenx.org/kyonh/cjeng
-- 韻母及反切下字 https://ytenx.org/kyonh/yonh
-- 聲母擬音 https://ytenx.org/kyonh/cjengngix
-- 韻母擬音 https://ytenx.org/kyonh/yonhngix
- 復旦大学東亜語言数拠中心 http://ccdc.fudan.edu.cn/bases/index.jsp
-- 古辞書検索 http://ccdc.fudan.edu.cn/linguae/dictionary.jsp
-- 中古音検索 http://ccdc.fudan.edu.cn/linguae/ltcPhonology.jsp
-- 上古音検索 http://ccdc.fudan.edu.cn/linguae/ochPhonology.jsp
- 小学堂 http://xiaoxue.iis.sinica.edu.tw/
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-- 合類李挺先生医学入門 巻16 https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?BID=F1000000000000034801&ID=&LANG=default&GID=&NO=16&TYPE=PDF&DL_TYPE=pdf&CN=1
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- Wikipedia(日本語)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82
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- 大辞林第三版 http://daijirin.dual-d.net/index.html
-- 特別ページ 片仮名 http://daijirin.dual-d.net/extra/katakana.html
- 韓国に恋して http://www7a.biglobe.ne.jp/~kum-kuda/kankoi/
-- 漢字のカナ−ハングル対照表 http://www7a.biglobe.ne.jp/~kum-kuda/kankoi/keymenu/kanjigo/kan_right90.html

** 文献 [#u0fbd097]
- 漢字文化資料館 / 医学をめぐる漢字の不思議
-- 「癌」の不思議 https://kanjibunka.com/yomimono/igaku_kanji/yomimono-7389/
- 和・漢・洋・才! 語源のブログ
-- http://naruhodogogen.jugem.jp/?eid=129
- 神と人のはざまで
-- 「癌」の文字は、12世紀から中国で使われています http://kamitohito.seesaa.net/article/195519187.html
- レファレンス協同データベース
-- 福井県図-2020819 https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000070636
- 語言研究 
-- 漢語方言影疑母児声母的分合類型 http://hakka.ncu.edu.tw/hakkalanguage/scripts/ch/ldownload/thesis/%E6%BC%A2%E8%AA%9E%E6%96%B9%E8%A8%80%E5%BD%B1%E7%96%91%E6%AF%8D%E5%AD%97%E8%81%B2%E6%AF%8D%E7%9A%84%E5%88%86%E5%90%88%E9%A1%9E%E5%9E%8B.pdf
- 張老大的博客
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- 古代文字資料館 
-- 図説漢語音韻史 http://www.for.aichi-pu.ac.jp/museum/pdf/zusetsu.pdf
-- 漢語ゼロ声母考 http://www.for.aichi-pu.ac.jp/museum/pdf/nakamura51.pdf
- 知網空間 
-- 「癌」字読音敵変遷 http://www.cnki.com.cn/Article/CJFDTotal-YWJZ199505027.htm
- 愛知学院大学 教養部紀要
-- 中国語湘方言の母音に関する一考察 http://www.agu.ac.jp/~molihua/study/xiangtan&changsha1.PDF
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