経緯
「癌」が「岩」に通じ中国官話でyánと読むべきものの、同じく病気の名前を「炎」yánと同音がために、「癌」をáiと改めた話がある。真偽であることを確認する際、否定された和製漢字説にも出くわし、大変面白い結果が得られた。その調査結果を以下に記す。
事実:yán から ái に変更されている
直接資料は個人図書館 www.360doc.com のユーザ「三姑書斎」の 2015/09/08 の記事
「他改変了“癌”字的読音──《現代漢語詞典》背後的故事」*1
執筆 庄建、編集 金衛鋒、審査 熊亦涵
http://www.360doc.com/content/15/0908/22/16520842_497788493.shtml
本記事は『現代漢語詞典』という中国で有名な定番辞書の編集に纏わる裏事情の紹介である。前半は一代目編集責任者である呂叔湘を、後半は二代目編集責任者である丁声樹を紹介している。中ほど、青い太字で強調された2段落で、丁声樹の業績として癌の読み変更を紹介している。
原文引用:
将“癌(yán)”字音改ái音,是丁声树的贡献。
他注意到医生口中的“胃ái(胃癌)”和“胃yán(胃炎)”是有区别的,而词典中两者却是同音词。
“癌”从“喦(yán)”得声,历来如此。
为此,丁声树特意走访了多家医院,才知道大夫们早已约定俗成地将“胃癌”读作“胃ái”。
一切从语言实际出发,丁声树果断地将“癌(yán)”音改标为ái,
从而在词典中将“胃癌(ái)”、“胃炎”严格区别开来。
这一变更,肯定了医生们的创造,极便于一般人口头表达,很快为社会广泛接受。
超意訳:
「癌(yán)」の読みを「ái」に変えたのは、丁声樹の業績である。
彼は、医者たちが「胃癌」と「胃炎」を区別しているのに辞典で両者が同音詞であることに気づいた。
「癌」は古来より「喦(yán)」から読みを取っていた。
丁声樹は、辞書を編著するために病院を歩き回って初めて、現場の医者が昔から習慣的に「胃癌」を「胃ái」と読んでいることを知る。
丁声樹は言語の実態に基づき、「癌(yán)」の読みを「ái」に変え、
「胃癌(ái)」と「胃癌(yán)」を厳密に区別させた。
この変更では、医者たちの想像を肯定し、一般人の会話表現も便利にし、早くても社会に受け入れられた。
要は、辞書的に同じく病気を表す「癌」も「炎」同じ読み「イェン」になっているが*2、現場の医者では当然「胃癌」も「胃炎」も「イ・イェン」では紛らわしくて仕事にならない。そんな医者たちは勝手に読み替えして、同音異義語を回避していた。
日本語で言うと、「市立」も「私立」も辞書的には「シリツ」と読むが、それでは話にならないので教育現場では「イチリツ」と「ワタクシリツ」と呼び分けているのと同じ。「シリツ」だった辞書を「市立(イチリツ)」、「私立(ワタクシリツ)」に変えたのが丁声樹の仕事である。
この記事は編集と構成を経て出されていて、かつ、記事の対象が国家プロジェクトで記録も多く、偽りがあれば反論の一つや二つは容易に見つかるはず。そのため、本記事の内容は一定の信憑性があるものと私は評価する。
訳:彼は「癌」字の読みを変えた──『現代漢語辞典』の背後にある物語
厳密にも、全ての子音・母音から声調まで、中国語において弁別可能な要素が全て一致している。
虚構:和製漢字説
和製漢字と思える理由
「癌」という字の歴史を調べると、定番字書である『説文解字』*3にも『康熙字典』*4にも見当たらない事実に遭う。台湾教育部の『異体字字典』*5で調べても出典が乏しく、1953年に完成した台湾語発音の字典である『彙音宝鑑』しかない*6。
一応もう一つの出典として『正字通』も挙げられてはいるが、残念ながら「𤸔(pin³)」という別字だった。
16世紀に完成した『本草綱目』には「癌」と「𤸔」の両方が現れていて、別義の別字と分かる*7。
このパターンは国字、すなわち日本で作られる和製漢字の場合が多い。日本で作られた漢字だから、中国の大字典でも収録されない。「癌 国字」で検索すると見事にヒットはする。ただし、同時に否定もされてしまう。
否定される根拠
福井県立図書館のレファレンス記録には、丁度「癌」についての調査結果が出ている。
福井県図の調べでも詳細に否定しているが、同じ趣旨の記事を数本挙げておく。
これらの文献で挙げている否定の根拠は同じである。
- 1170年(宋代、平安時代)の「衛済宝書」に「癌」の記載がある。
- 1264年(宋代、鎌倉時代)の「仁斎直指方」に「癌」の記載がある。
また、福井県図によれば、和書では
- 1666年(江戸時代)『合類医学入門』に「癌」の記載がある。
- 1793年(江戸時代)『病名彙解』に「癌」の記載がある。
(※確認したら「岩」が使われていた)
殊更、和書『合類医学入門』は1575(明代、安土桃山時代)の漢籍『医学入門』に基づいて再編した本である。『医学入門』の立ち位置に関しては以下が詳しい。
以上の証拠により、日本が西洋医学を学んで造字する前から「癌」の字が存在していたと結論づけられる。
根拠の検証
「記載があると」あれば、実物を見れば確証を得られる。しかし、千年も前の書籍を容易に見れるものではない。語源ブログによれば、在野の研究者ですら現物を確かめるのが難しい。
幸い、今はデジタルライブラリが充実し、外野でもその恩恵を受けられる。先人に感謝しながら、以下にアクセスできた書籍を有難く引用する。
新刊新刊仁齋直指方論目録
結論、「癌」だ。 |
図1: 新刊新刊仁齋直指方論目録にある「癌」の用例 |
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合類李挺先生医学入門 外集巻之十六 八尾玄長 編 説明の中身も含めて如何にも「癌」だ。 一応書き下し*10*11: 【癤癌瘭痼也た同方。】 闊一寸より二寸に至を癤と為す。 二寸より五寸に至を癰と為す。 五寸より一尺に至を疽と為す。 一尺より二尺に至を竟体疽と為す。 未潰へず色紫黒堅硬、已に潰へて深陥岩の如を癌と為す。 四畔生を牛唇の如く黒硬瘭と為す。 頭面無く色淡紅を痼と為す。 是知ぬ腫起を癰と為す。 沈潰を疽と為す。 外に発出する者を外発、腸胃に陰伏する者を内疽と為す。 癤、癰疽に比すは更に軽し、癌瘭痼は多くは治し難し。 〇癌は多く乳脇豚跨に生む。 全く宜大に気血脾胃を補うべし、及び鑞礬丸(方は外科通用を見よ) 膜を護り肌を生め、其の万一を冀ふ。 〇瘭痼は後の週身の部に見たり。
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また、『医学入門』の原本写真は見つからなかったが、それをテキスト化したライブラリが中国語で公開されている。
中医宝典 > 中医综合 > 《医学入门》
http://zhongyibaodian.com/yixuerumen/
癌は「外集卷五 外科」の「癰疽総論」となる。
http://zhongyibaodian.com/yixuerumen/346-18-1.html
一番最後の「疖癌瘭痼也同方。」からの段落が上記段落に対応している。
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/
国立公文書館デジタルアーカイブ https://www.digital.archives.go.jp/
途中、一部の返り点がかなり怪しいが……
この短い文書の中に、異体字まで混ざってて中々手強い。
理論:音韻変化 冒頭に引用した記事から、「癌」の発音がyán から ái に変更されている事実が分かった。 しかし、人為的な変更ではあるが、医療現場の使い分けに基づいている。その医療現場で発生した音韻変化を調べると、一般的な音韻変化と方言音の2つの理由に辿ろ着く。しかし人為的な変更ではあるが、医療現場の使い分けに基づいていた。その医療現場で発生した音韻変化を調べると、一般的な音韻変化と方言音の2つの理由に辿り着く。「癌」に通じる「嵒」の中古音は「ŋram」に推定され、「yan」と「ai」の違いは頭子音と終子音になる。頭子音の「ŋr→y→φ」と終子音の「m→n」は一般的な音韻規則で説明できるが、「n→i」は特殊である。
疑母 ŋ の脱落と m 韻尾の合流 中国語の「ŋ」が不安定で、様々な方言において脱落ないし弱化している。「癌」に通じる「岩」の古字「嵒」の中古音は「ŋam」に推定され*12、「yan」と「ai」の違いは頭子音と終子音になる。頭子音の「ŋr→y,φ」と終子音の「m→n」は一般的な音韻規則で説明できる。中国語の軟口蓋鼻音こと牙音次濁の「ŋ」が不安定で、様々な方言において脱落ないし弱化している。大体の傾向として、普通話の基準となっている北京語ではほぼ完全に脱落している。北方方言の武漢や南方方言では開口呼(-a-母音)を中心に部分的に保留されている。参考:他方、韻尾の終子音である「-m」が「-n」に合流したのは有名な話で、大体16世紀に起きた北方方言全体に及ぶ現象である。他方、韻尾の終子音である「-m」が「-n」に合流したのは、16世紀頃に起きた北方方言全体に及ぶ音韻変化である。参考:これらの結果により、「岩」は ŋ の弱化と m の合流で、ŋram から yan に変わったのが自然に説明できる。これらの結果により、「岩」は ŋ の弱化と m の合流で、ŋam から yan に変わったと説明できる。
議論を単純にするため、幾つかの推定結果を基に単純化している。例えば、軟口蓋化や声調は無視している。
「崖」の方言音 対して、韻尾の「n」→「i」の変化、延いては韻母の「an」→「ai」の変化は珍しい。英語版wikipediaの「癌」の項目には気になる説明がされている。https://en.wiktionary.org/wiki/%E7%99%8C- https://en.wiktionary.org/wiki/%E7%99%8C
In Mandarin, this character used to be pronounced identically as 岩 (yán). Its pronunciation was changed to ái in December 1962 to avoid the homophony between 癌 (ái, “cancer”) and 炎 (yán, “inflammation”) (compare 肺炎 (fèiyán, “pneumonia”) and 肺癌 (fèi'ái, “lung cancer”)). The new pronunciation ái stems from dialectal pronunciations of 岩 (“rock; cliff”) /ŋai/, influenced by 崖 (yá, yái, “cliff”).
超意訳:超意訳:
普通話では、この文字が「岩 (yán)」と同じ発音されていた。 1962年12月に、ái に変更された。 「癌 (ái, "cancer") 」と「炎 (yán, "inflammation") 」の混同を避けるために。 (「肺炎 (fèiyán, "pneumonia")」と「肺癌 (fèi'ái, "lung cancer")」を比較せよ) 新しい発音 ái は、岩(rock;cliff[崖])/ŋai/の方言の発音に由来する。 「崖 (yá, yái, “cliff”)」に影響を受ける。
疑母の脱落 「崖」に関して調べると、百度知道に尤もらしい答えが見つかる。http://www.for.aichi-pu.ac.jp/museum/pdf/nakamura51.pdf「崖」の昔の発音を調べると、五佳切 ŋai と分かる。この変化に関して、まず ŋai → ai, yai は ŋ が脱落・弱化した結果と説明できる。次に yaの発生となるが、yai の韻尾 i の脱落と考えられる。というのも、通常韻尾 i は脱落しないが、殊更 ?-i-?-i は普通話に許容されてない音節となる*15*16。ŋai の弱化で yai が発生したのが台湾正式読みだが、居座りが悪いため脱落したのが ai と考えられる。そして、yai のように ŋ は弱化に留まった上で居座り良くするために韻尾 i が脱落して生じたのが ya と考えられる。||*北:普通話(北京)、台:国語(台湾)、客:客家語。 |
「岩」の方言音 では、「崖」のこの影響を受け、「岩」も同じように考えられるか。これも百度知道に答えが出ていた。 問:「岩」のの読みは yan の1つだけ?四川・重慶・安徽が皆「挨(ai)」と同じ音で読んでいるけど、なぜ? その後の問いは趣旨が変わって「なぜ ai の読みも辞書に収録しないのか」となり、回答も ai の生じる理由に答えずに、「普通話の辞書だから普通話の発音しか収録しないのが当たり前」という頓智になっていた。しかし、少なくとも四川・重慶・安徽など中国の中部では「岩」を ai と読む地方の存在するのが分かる。「岩」を ai と読むか読まないかの話自体は他にも沢山見つかることから、事実と思って良いだろう。そのた結果、「肺炎」と「肺癌」の区別に苦労した医者に「岩」を ai と読む地方の出身者が居れば、方言音の ai で区別する工夫をし、現場で普及して行くのが容易に想像つく。ところが、これが「崖(yai,ya,ai)」の影響かは確認できない。「崖」が ai になるのは ŋ の弱化で生じた yai が嫌われるためのは前節での説明した通り。それで「崖の影響を受ける」と言われると、まず思いつくのは ŋ の弱化ではなく完全脱落ŋam → am → an になるが、これでは → ai を説明できない。また、「岩」の ŋ が弱化して生じた yan は良くある音節である。「岸」のように ŋan → an と脱落する例もあるが、顔言眼雁など yan に弱化して安定する例が多い。一応、解答者が挙げたリストを見ると、anとaiが混同する地域が存在するだろうが、場所も含め、2020/03/30の時点では確度の高い情報を見つかってない。- https://zhidao.baidu.com/question/95376545.html
如果全国各地的读音都收,那就没法编字典了,难道说“岩”读yan,an,ang,ai,ngai,ngan,ngam,am? 超意訳 全国の方言読みを全部収録したら、字典とか作れないわ。「『岩』 が yan,an,ang,ai,ngai,ngan,ngam,am と読む」とでも書けっての?
上で考えられた音節が大体出揃っている。こんな辞書があったら、正直欲しい!
「百度知道」は某知恵袋のようなサービスのため、信憑性に警戒が必要である。この読みは辞書を引けば確認が取れる。
直訳では「大陸旧読み」になるが、後ろとダブることと、yaは現行辞書に載る読みのため、恐らく誤字。
具体的に、yei, yai, diei, diai, jiei, jiai などの音節が無い。
他に、?-u-?-u の音節も無い。例えば、weu, wau, duou, duau, zuou, zuau などの音節が無い。
結論 以上の調査により、現時点では以下を結論とする:- 癌の読みを yán から ái に人為的に変えられたのは事実であった。
- 辞書での変更より先に、ái と読む職場と地方が存在していた。
- 癌の字と読みは古く、遅くとも宋の時代からあり、和製漢字説は間違い。
参考
ツール
文献 - 漢字文化資料館 / 医学をめぐる漢字の不思議
- 和・漢・洋・才! 語源のブログ
- 神と人のはざまで
- レファレンス協同データベース
- 語言研究
- 張老大的博客
- 古代文字資料館
- 知網空間
- 愛知学院大学 教養部紀要
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