経緯「癌」が「岩」に通じ中国官話でyánと読むべきものの、同じく病気の名前を「炎」yánと同音がために、「癌」をáiと改めた話がある。真偽であることを確認する際、否定された和製漢字説にも出くわし、大変面白い結果が得られた。その調査結果を以下に記す。 事実:yán から ái に変更されている直接資料は個人図書館 www.360doc.com のユーザ「三姑書斎」の 2015/09/08 の記事 本記事は『現代漢語詞典』という中国で有名な定番辞書の編集に纏わる裏事情の紹介である。前半は一代目編集責任者である呂叔湘を、後半は二代目編集責任者である丁声樹を紹介している。中ほど、青い太字で強調された2段落で、丁声樹の業績として癌の読み変更を紹介している。 原文引用:
超意訳:
要は、辞書的に同じく病気を表す「癌」も「炎」同じ読み「イェン」になっているが*2、現場の医者では当然「胃癌」も「胃炎」も「イ・イェン」では紛らわしくて仕事にならない。そんな医者たちは勝手に読み替えして、同音異義語を回避していた。 日本語で言うと、「市立」も「私立」も辞書的には「シリツ」と読むが、それでは話にならないので教育現場では「イチリツ」と「ワタクシリツ」と呼び分けているのと同じ。「シリツ」だった辞書を「市立(イチリツ)」、「私立(ワタクシリツ)」に変えたのが丁声樹の仕事である。 この記事は編集と構成を経て出されていて、かつ、記事の対象が国家プロジェクトで記録も多く、偽りがあれば反論の一つや二つは容易に見つかるはず。そのため、本記事の内容は一定の信憑性があるものと私は評価する。 虚構:和製漢字説和製漢字と思える理由「癌」という字の歴史を調べると、定番字書である『説文解字』*3にも『康熙字典』*4にも見当たらない事実に遭う。台湾教育部の『異体字字典』*5で調べても出典が乏しく、1953年に完成した台湾語発音の字典である『彙音宝鑑』しかない*6。 一応もう一つの出典として『正字通』も挙げられてはいるが、残念ながら「𤸔(pin³)」という別字だった。 このパターンは国字、すなわち日本で作られる和製漢字の場合が多い。日本で作られた漢字だから、中国の大字典でも収録されない。「癌 国字」で検索すると見事にヒットはする。ただし、同時に否定もされてしまう。 *3
漢代に出版された最古の部首別漢字字典。
wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AC%E6%96%87%E8%A7%A3%E5%AD%97 が詳しい。 *4 説文解字以降の歴代辞書を集結した清代の大字典。 wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E7%86%99%E5%AD%97%E5%85%B8 が詳しい。 *5 異体字まで豊富に収録しているオンライン字典。 https://dict.variants.moe.edu.tw/variants/rbt/home.do *6 異体字字典【癌】https://dict.variants.moe.edu.tw/variants/rbt/word_attribute.rbt?quote_code=QTAyNzA3 *7 根拠は後述する漢字文化資料館の記事の一番最後が詳しい。 https://kanjibunka.com/yomimono/igaku_kanji/yomimono-7389/ 否定される根拠福井県立図書館のレファレンス記録には、丁度「癌」についての調査結果が出ている。
福井県図の調べでも詳細に否定しているが、同じ趣旨の記事を数本挙げておく。
これらの文献で挙げている否定の根拠は同じである。
また、福井県図によれば、和書では
殊更、和書『合類医学入門』は1575(明代、安土桃山時代)の漢籍『医学入門』に基づいて再編した本である。『医学入門』の立ち位置に関しては以下が詳しい。
以上の証拠により、日本が西洋医学を学んで造字する前から「癌」の字が存在していたと結論づけられる。 根拠の検証「記載があると」あれば、実物を見れば確証を得られる。しかし、千年も前の書籍を容易に見れるものではない。語源ブログによれば、在野の研究者ですら現物を確かめるのが難しい。 幸い、今はデジタルライブラリが充実し、外野でもその恩恵を受けられる。先人に感謝しながら、以下にアクセスできた書籍を有難く引用する。 新刊新刊仁齋直指方論目録
合類李挺先生医学入門 外集巻之十六 八尾玄長 編
また、『医学入門』の原本写真は見つからなかったが、それをテキスト化したライブラリが中国語で公開されている。 *8
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/
*9 国立公文書館デジタルアーカイブ https://www.digital.archives.go.jp/ *10 途中、一部の返り点がかなり怪しいが…… *11 この短い文書の中に、異体字まで混ざってて中々手強い。 理論:音韻変化冒頭に引用した記事から、「癌」の発音がyán から ái に変更されている事実が分かった。しかし人為的な変更ではあるが、医療現場の使い分けに基づいていた。その医療現場で発生した音韻変化を調べると、一般的な音韻変化と方言音の2つの理由に辿り着く。 疑母 ŋ の脱落と m 韻尾の合流「癌」に通じる「岩」の古字「嵒」の中古音は「ŋam」に推定され*12、「yan」と「ai」の違いは頭子音と終子音になる。頭子音の「ŋr→y,φ」と終子音の「m→n」は一般的な音韻規則で説明できる。 中国語の軟口蓋鼻音こと牙音次濁の「ŋ」が不安定で、様々な方言において脱落ないし弱化している。大体の傾向として、普通話の基準となっている北京語ではほぼ完全に脱落している。北方方言の武漢や南方方言では開口呼(-a-母音)を中心に部分的に保留されている。参考:
他方、韻尾の終子音である「-m」が「-n」に合流したのは、16世紀頃に起きた北方方言全体に及ぶ音韻変化である。参考:
これらの結果により、「岩」は ŋ の弱化と m の合流で、ŋam から yan に変わったと説明できる。 「崖」の方言音対して、韻尾の「n」→「i」の変化、延いては韻母の「an」→「ai」の変化は珍しい。 英語版wikipediaの「癌」の項目には気になる説明がされている。
「崖」に関して調べると、百度知道に尤もらしい答えが見つかる。
「崖」の昔の発音を調べると、五佳切 ŋai と分かる。
この変化に関して、まず ŋai → ai, yai は ŋ が脱落・弱化した結果と説明できる。次に yaの発生となるが、yai の韻尾 i の脱落と考えられる。 というのも、通常韻尾 i は脱落しないが、殊更 ?-i-?-i は普通話に許容されてない音節となる*15*16。ŋai の弱化で yai が発生したのが台湾正式読みだが、居座りが悪いため脱落したのが ai と考えられる。そして、yai のように ŋ は弱化に留まった上で居座り良くするために韻尾 i が脱落して生じたのが ya と考えられる。 「岩」の方言音では、「崖」のこの影響を受け、「岩」も同じように考えられるか。これも百度知道に答えが出ていた。
その後の問いは趣旨が変わって「なぜ ai の読みも辞書に収録しないのか」となり、回答も ai の生じる理由に答えずに、「普通話の辞書だから普通話の発音しか収録しないのが当たり前」という頓智になっていた。 しかし、少なくとも四川・重慶・安徽など中国の中部では「岩」を ai と読む地方の存在するのが分かる。「岩」を ai と読むか読まないかの話自体は他にも沢山見つかることから、事実と思って良いだろう。そのた結果、「肺炎」と「肺癌」の区別に苦労した医者に「岩」を ai と読む地方の出身者が居れば、方言音の ai で区別する工夫をし、現場で普及して行くのが容易に想像つく。 ところが、これが「崖(yai,ya,ai)」の影響かは確認できない。「崖」が ai になるのは ŋ の弱化で生じた yai が嫌われるためのは前節での説明した通り。それで「崖の影響を受ける」と言われると、まず思いつくのは ŋ の弱化ではなく完全脱落ŋam → am → an になるが、これでは → ai を説明できない。 また、「岩」の ŋ が弱化して生じた yan は良くある音節である。「岸」のように ŋan → an と脱落する例もあるが、顔言眼雁など yan に弱化して安定する例が多い。一応、解答者が挙げたリストを見ると、anとaiが混同する地域が存在するだろうが、場所も含め、2020/03/30の時点では確度の高い情報を見つかってない。
上で考えられた音節が大体出揃っている。こんな辞書があったら、正直欲しい! *13
「百度知道」は某知恵袋のようなサービスのため、信憑性に警戒が必要である。この読みは辞書を引けば確認が取れる。
*14 直訳では「大陸旧読み」になるが、後ろとダブることと、yaは現行辞書に載る読みのため、恐らく誤字。 *15 具体的に、yei, yai, diei, diai, jiei, jiai などの音節が無い。 *16 他に、?-u-?-u の音節も無い。例えば、weu, wau, duou, duau, zuou, zuau などの音節が無い。 結論以上の調査により、現時点では以下を結論とする:
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文献
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